はじめて手に入れた、うさとの服には、
すこし、不思議な出会いを感じたことを、書きましたが
(前記事「 うさとの服との出会い2 」)、
「不思議な出会い」といえば、
この服との出会いにも、とても不思議な出来事がありました。
この服と出会い、購入したのは、
うさと京都店 でのことです。
その日は、
金土日に行う、大阪での個人セッションなどを控えた、
2015年10月15日(木)でした。
店に入ると、
入り口正面の位置に吊るされていた、その服に、
すぐに、目が行きました。
鮮やかな、緑色。
見事な、名人織り。
しかも、ロング丈で、その、見事な布が、贅沢に使われています。
手に取って、ラックから出し、服の正面を見てみると、
しかも、柄が、斜めに、入れられています。
その手の入れられ様、手間の込められ様に、
頭がクラクラしました。
すぐに、試着させてもらいました。
サイズも、ピッタリです。
素晴らしく、素敵な服でした。
とっても、気に入りました。
でも、すぐに、ラックに戻しました。
購入しないことに決めたからです。
まず、丈が長い、そのデザインだと、
あまり着る機会が無い、着こなせないと思いました。
それに、なにより、素晴らし過ぎました。
素晴らし過ぎて、僕にはもったいないと思いました。
着る機会もあまりないだろうし、素晴らしすぎる。
他の、よりご縁のある方が、着るべきだろうと思いました。
すると、僕がラックに戻すやいなや、
店にいらした、別の女性のお客様が、
その服を、手に取りました。
僕が着ているのを見て、その服を気に入ったとのことです。
僕が着るまでは、その服の存在にすら、気づいていなかったけど、
僕が着ているのを見て、素晴らしいと思われたとのことです。
ご主人用に良いのでは、と、おっしゃいます。
すぐさま、写真を撮って、ご自宅に居るご主人に、それを送ります。
「買う?」メールを送ります。
「買って!」ご主人からの返答です。
「サイズが、あなたには小さいけど、大丈夫かな?」
「君が大丈夫だと思うなら、いいと思う」と、すぐに返答。
女性は、買うことに、決められたようです。
そこに来て、すこし、残念な、惜しい気持ちが、
僕の中に、湧いてきました。
素晴らしい服が、目の前で、他に行っていまう流れに遭遇して、
やはり、惜しい・残念という気持ちが、して来ました。
でも、だからといって、
「やっぱり、僕が買います!」と言うまでには、行きませんでした。
やはり、
「このデザインだと、あまり着る機会が無いだろう」
「それに、僕には、もったいない」
と、思いました。
そこで、あれこれ考えるのを止め、
流れに身を任せて、事を静観することにしました。
すると、とつぜん、その女性が、
「でも、やっぱり、夫にはサイズが合わないし、それに、似合わない気がする」
と、言いはじめました。
「いや、あなたのほうが、似合うと思う」
とまで、言い出しました。
僕に向かって、
僕に譲り、購入を勧めることまで、言い出しました。
さらに、
「じゃあ、ペンデュラムで訊いてみる」
と、
ペンデュラムを出し、ダウジングを始めました。
その服に、その服を着るのは誰が良いか、を、
質問するとのことでした。
結果、僕が、選ばれました。
「あなたが買って、着たほうがいいわ」
…
そのような展開になって、そこで、
僕は、その服を購入させていただくことに決めました。
その服を購入しないつもりでいたのは、
気に入らないからなどではなく、
むしろ、もったいないし、そして、「良すぎる」からで、
ある意味、遠慮したようなところがあったからです。
ところが、
周りが、周りの環境が、宇宙が、服が、
僕に、「惜しい」という気持ちを起こさせ、
そして、僕に、「買いなさい」とまで、言ってくれた展開を受けて、
そこで、ようやく、
素直に、受け入れ、服に来ていただく気になれました。
このような出来事から、
僕は、その服を、入手することになったのでした。
うさと展では、うさとの服に関しては、
とても良く、
「服は、作られた時から、誰のところに行くか、決まっている」
とか、
「着るべき服には、巡り会えるから、焦る必要は無いよ」
とか、言われます。
でも、そうは言われても、
やはり、エゴは、
「素敵な服に、出会えるように」
「それを、他の人に、取られないように」
と、
なにか、焦ってしまったり、
できるだけ早めに、うさと展に行こうと、してしまうものだと思います。
少なくとも、僕は、それまで、
出来るだけ、うさと展の初日に、しかも、出来るだけ早い時間に、
行こうとしていました。
それは、それで、ある意味当然のことだと思います。
実際、僕の場合も、
そうすることによって、お気に入りの服たちに、出会えてきました。
でも、そのときの一件以来、
たとえ、自分のほうで、遠慮するようなことがあったとしても、
まわりの人から、服のほうから、
購入を促してくれるようなことがあるんだ、
そして、その結果、自分の手元に来てくれるんだ、ということを、
自分自身の体験として、経験したことで、
焦るように、素敵なうさと服を欲する気持ちは、
すこし、治まりました。
それ以来、
もっと気楽に、楽しく、うさと展に行くことができ、
より心穏やかに、うさと服と接することができるようになりました。
それは、僕にとっては、
とてもありがたい、貴重な経験でした。
さて、この話には、続きがあります。
無事、件(くだん)の服を、入手することになり、
お会計を済ませた後に、
先の女性から、声をかけられました。
「ところで、今日は、なんで京都にいらしたのですか?
上賀茂神社にいらしたのですか?」
はじめに書きましたが、
僕は、翌日からの、週末に、
大阪で、個人セッションなどをするために、関西に来ていて、
その前に、うさと服を見るために、
その日、京都に寄ったのでした。
そして、
大阪でのイベントを、その週末にすることを決めたのは、
その土曜日である10月17日が、
津留さん( 津留晃一 )の、命日だったからです。
僕は、その質問の意味が分かりませんでしたので、
その女性に、尋ねました。
「上賀茂神社、って、どういう意味ですか?」
「いや、今日は、上賀茂神社の式年遷宮の正遷宮だから、
それを見にいらしたのかと思って。
私は、それで来たのよ」
「良かったら、一緒に見に行かない?
私、車で来てるんだけど」
その日は、
僕にとっては『偶然』にも、
上賀茂神社さまの、21年に一度の式年遷宮の、
修復された本殿に、御神体をお遷しする、
正遷宮が、執り行われる日だったのです。
それら、一連の、『偶然』に、
今度は、ためらうことなく、
上賀茂さまに、伺うことにしました。
境内に入って、参列臨席することは、
叶いませんでしたが、
でも、幸いにも、
鳥居の手前、一番前から、
見える範囲で、その儀式を、終始、拝見することができました。
儀式そのものにも、
自分が、そこに居て、それを見ていることにも、
すべてに、
「非現実的」とでもいうような、
あやうさ・あやふやさの漂いを、感じながらの、拝見でした。
儀式終了後に、
「記念に」と、
写真を撮っていただきました。
後に、それを目にして、
「あの服を、正遷宮の場にお連れすることが、僕の役割で、
一連の出来事は、そのために起きてきたことのなのでは」
と、思うようになりました。